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昭和49年
(1974年)
0歳
4月6日 聖マリア病院(兵庫県姫路市)に生まれる。
昭和52年
(1977年)
3歳
4月
姫路市立砥堀保育所に入所する。(すみれ組・3年保育)
 →田中先生に『ないたあかおに』(文:浜田廣介 絵:池田龍雄 偕成社)という本をいただく。今でも大切に保管している。私の人生に今でも影響を与え続ける一冊。
昭和55年
(1980年)
6歳
4月
姫路市立砥堀幼稚園に入園する。(バラ組−西田先生)
・水泳を習いはじめる。(ニチイ・ピープル北姫路、〜9歳)
 →水泳が得意になりました。
昭和56年
(1981年)
7歳
4月 姫路市立砥堀小学校に入学する。1年朝田先生、2年松田先生、3〜5年永井先生、6年水谷先生に担任していただく。
・4年より姫路ラグビースクール(写真)に入校する(ポジション:センター、〜6年)実はテレビドラマ「スクールウォーズ」の影響です (;^_^A
・6年 走り幅跳びで姫路市陸上競技大会5位(記録:4m27cm)
 50m平泳ぎで姫路市水泳記録会5位(記録:47秒1)
 小学校のりんご皮むき大会(連続する皮の長さを競う)クラス3位(笑)。包丁は幼稚園時代から母が私に使わせてました
 ※運動は結構得意でした。運動会のリレー(写真)になると燃えてました。
このころの私
昭和62年
(1987年)
13歳
4月 姫路市立増位中学校に入学する。1年岩井先生、2年内藤先生、3年浅井先生に担任していただく。
→部活動−水泳部からのお誘いもあったが、なぜかバレー部(写真)へ。(ポジション:セッター)
※体育大会は1・2年と走り幅跳びで優勝。3年はリレーで出場(写真)しました。
兵庫県少年少女将棋大会で3位入賞
このころの私
平成2年
(1990年)
16歳
4月 兵庫県立姫路西高等学校に入学する。1年西畑先生、2年定行先生、3年柴田先生に担任していただく。
※弁当だけでは足りず、食堂に行ってカレーうどんやカレーラーメン等をよく食べました。このころからだんだん体重が増えていきました。
勉強
 歴史や古文、漢文など、好きな勉強ばかりしていました。一時、考古学も考えましたがこのころは、3年生になると東京に行って司法試験を受けるつもりでした。弁護士になって弱い立場の味方をするか検事になって悪いものを懲らしめるかと思っていましたね。
高校当時の父との証明写真比較 似てますか?
このころの私
平成5年
(1993年)
19歳
4月 ・上京する
 →以降4年間、両親から毎月10万円づつ仕送りしてもらいました。家計は大変だったと思います。本当に感謝しています。
早稲田大学政治経済学部政治学科に入学する
 →中国語28組−楊先生。中国語を第二外国語に選択したのは、今後の中国の発展と、漢字を使っていて簡単そうだと思ったからです。

 →困窮学生に支給される小野梓記念奨学生となり奨学金給付を受け、また日本育英会・早稲田大学から300万以上をお貸りしてなんとか卒業できました。20年の分割で完済しました。本当に感謝しています。
池袋セツルメント(ボランティア・サークル)に入会する。
 →共働き家庭の子供たちの面倒を見たり、遠足に行ったりするボランティアサークルです。子供たちに「くれよんしんちゃん」というニックネームをもらいました。
早稲田大学鵬志会(政治を志す学生の会)に入会する。
 →入会によって今の自分があります(良かったのか悪かったのか…)。(活動風景写真)

 →東京都議会選挙で初めて選挙というものに触れる。
6月 奥田敬和先生(衆議院議員)の事務所へ。いきなり名刺と私設秘書の記章や通行証を受け取りました。まだ19歳でしたから驚きましたね。政治家の自宅に住み込みする学生は「書生」と言われましたが当時は既に小沢一郎事務所だけで、私は議員会館勤務いわゆる学生秘書でした。議員会館の中には理髪店があるんですが、第二議員会館での私の散髪の途中に、現職の羽田孜総理が入ってきたときは驚きましたね。
(奥田事務所に入ったのは鵬志会・金沢出身のN先輩の紹介です。議員会館勤務中の写真)
10月 ・大学に食べ歩きサークル「コンステレーション」をつくる。最初は既存の「早大グルメの会」に入ったのですが、自分たちで企画しようということで、いまは霞が関にいる同級生の友人と2人でつくりました。他大学へも勧誘にいき、掲示板などに張り紙をするのですが、キャンパス内の張り紙が禁止という品行方正な大学もあり、翌日大目玉をくらったこともありました…。老舗の洋食屋さんとか行きましたね。
平成6年
(1994年)
20歳
12月 ・新生党・日本新党・公明党などが合併し、新進党が結党される
 →奥田先生も参加。新進党に学生組織をつくるべく行動。
平成7年
(1995年)
21歳
1月17日 阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)おこる。
 →ボランティアが活躍する報道を見て、私もなにかの役に立ちたいと思い、ボランティア活動を提起する。
2月28日 学習ボランティア始動(代表:僕 事務局長:野間くん)
               (その模様はこちらから)(〜3月27日)
佐藤俊一教授(のちに東洋大学副学長)のゼミを選択し、地方自治を研究する
(合宿風景)
4月 ・新進党に学生部を結成、初代代表幹事に就任する(任期1年)
(写真)
12月 ・新進党党首選挙で学生部主催討論会を開催する
 →このとき、羽田・小沢候補を前に政党にシンクタンクを創設する必要性を訴える。
平成8年
(1996年)
22歳
2月頃 ・就職活動を行う。
 →政党本部に就職する選択肢もありましたが、政治の世界一筋の先輩から一度は民間企業を経験したほうがよいとのアドバイスを受け、ダイエーの中内さんのように一代で大企業を作り上げた経営者のもとで勉強するか、若くても能力が発揮でき、社員1人当りの利益が多い会社のどちらかを選ぶつもりで活動しました。セブン−イレブンを選んだのはコンビニをインフラ活用すれば消費者との接点をおさえられると考えたからです。そのころから銀行業に進出すればいいと思っていました。
9月 ・衆議院総選挙スタッフ(惜敗でした)
平成9年
(1997年)
23歳
3月 ・早稲田大学を卒業する(写真)
(株)セブン−イレブン・ジャパンに入社する(卒業前3/5入社)
 →ヨーカ堂グループ入社式ではセブンの新入社員代表で鈴木敏文会長と握手。テレビのニュースでも放映されました。

 →最初は新規開店応援を担当し全国各地を巡りました。オーナーさんやアルバイトさんは希望に燃えていましたね。北海道の紋別、山梨の甲府など全国各地を訪問。

 →その後、セブン1号店の豊洲店と並ぶ有名直営店「久我山五丁目店」に配属されます。鈴木敏文会長のご自宅の最寄り店ですね。マニュアルにない超法規的命令ばかりで、会社の掟を勉強しました(笑)。
 数字を作るための自腹も横行して、上司の自腹があまりにも酷いので僭越ながらたしなめました。また、残業は月100時間にもなりましたが、残業手当を申請したら本社から怒られ、すぐに副店長という管理職になり残業という概念から切り離されました(苦笑)。誰も働きたくない大晦日・正月に出勤してくれるバイトやパートさんの給料に色を付けることが禁止されていて、これには私も自腹で対抗しました。働く人の気持ちを大切にしないところは駄目です。労働組合がないことの悲哀を感じました。ちょっと痩せました。
 クリスマスにはサンタの格好(写真)をしてケーキを売ったりもしました。またおせち、ギフト、切花、年賀状印刷、書籍販売などの獲得ノルマを達成するため、友達にも協力してもらいました。感謝しています。
 ※民間企業の厳しさを体感しました。感謝しています。
平成10年
(1998年)
24歳
2月

・セブン−イレブン・ジャパンを退職する
3月 ・新党友愛事務局に入局する。
 →学生時代から大変お世話になっている先輩(民間企業を経験すべきとアドバイス下さった先輩)から戻ってこないかと誘われ、数日で決断しました。
 →衆議院事務局に配属(職場の写真)
4月27日 ・民友連4党が合併し、新民主党が結党される(組織委員会配属)
7月 ・参議院選挙で神奈川選挙区に派遣される(写真)
8月 ・台湾旅行へ銀婚式の両親を招待する(2泊3日)
 →旅費は私、小遣いは妹2人が負担しました。母は初めての海外旅行でした。
9月 ・参議院国会対策委員会に異動する。
平成12年
(2000年)
26歳
9月 ・衆議院総選挙が行われる(開票センターでの写真)
・このころの僕
平成13年
(2001年)
27歳
1月2日 ・砥堀小学校同窓会を開催する。
 →水谷先生・永井先生にもお集まりいただきました。久し振りで本当に楽しかったです。
4〜5月 第16回 日米青年政治指導者交流プログラムに日本側代表として参加。世界の広さと、日本政界の未熟さに今更ながら辟易しました。アメリカの政治家が語るビジョンに感動。いずれは私もと初めて思いました。
平成14年
(2002年)
2月3日 「人生一度きり」。自ら政治改革にあたる意志を固める。